
未曾有の傷跡と爪痕を日本に残した3.11。あれから9年の歳月が流れました。犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
またこのブログには所謂「トンデモ陰謀論」と唾棄され、嘲笑されるような内容も含まれます。そのような内容が馬鹿馬鹿しいと思う方は、今すぐこのブログから離脱することをお勧めします。どうかあなたの大切な時間を無駄にしないでください。
鮮明に残っているあの日の記憶
忘れもしないその日(2011年3月11日)は、肝臓を悪くして2週間ほど入院していた私が、退院した日でした。
今までにも折に触れ書い来ましたが、その年の2月に、私はインフルエンザに罹患し、病院に行ってタミフルを処方してもらい、それを飲み初めて暫くした頃から、食後の吐き気やだるさが続くようになり、終には黄疸が出てしまいました。慌てて病院に行くと、急性肝炎(劇症肝炎)とのことで急遽入院することになり、そして退院したのが奇しくも東日本大震災のあった3月11日だったのです。
病院で精算や手続きを済ませ、実家に寄ってから部屋に戻ったのですが、荷物を片付けていたらあの大きな揺れ。吃驚してテレビを付けると信じられない光景が飛び込んで来たのでした。
それでまた具合が悪くなり、また入院は御免だと思って、半月~1ヵ月ほど寝たり起きたりを繰り返していたのが、まるで昨日のことのように思い出されます。
2011年から始まった戦いの日々
被災された方々は復興に向けて、今も尚、戦いの日々を送られていることと思いますが、私の戦いが始まったのも2011年からでした。実際には、その前年から始まっていたのですが、目に見える形て、あるいは私が自覚するような形での異変が始まったのが2011年でした。
その年はとにかく大雪が続き、明けても暮れても雪かきの日々。既に肝臓が悲鳴を上げていたのに、容赦なく降り続く雪はあっという間に数十センチも積もってしまい、無理してでも雪かきに出なければならなかったのです。
その住人が後に集ストに加担していることがわかり、何とも言えない悔しさというか、驚きというか、不快感というか、嫌悪感というか、言葉では言い表せないような気持ちに打ちのめされる日が来ようとは、露ほども思っていませんでした。
雪かきに出る度になぜか同じタイミングで出てくる住民達がいることを、その当時はまだ気付いていなかったのです。
既に2011年からは、子供による壮絶なノイズキャンペーンが始まっていて、退院したものの、自分の部屋にいてもゆっくり過ごすことができず、精神的にも相当追い込まれ、辛い日々を過ごしていました。
あまりに常軌を逸した「騒音」に耐えかねて、学校や警察に相談する為にビデオ撮影するようになったのですが、最初は分からないように撮影していた私もいよいよ我慢の限界に達し、次第に堂々とカメラを向けるようになっていました。

2013年頃からは、団地周辺をヤクザ風の人物や半グレ暴走族がうろつくようになり、深夜に爆音を立てて走り回る暴走族に悩まされるようになりました。
その後から、今度は警察が不自然に団地にやって来るようになり、駅までの往復時には、異様な頻度と確率でパトカーや消防車、救急車に遭遇し、高速道路からは1日に10回も20回もサイレンが聞こえる日が続き、ベランダから下を見下ろすと、なぜか同じ住民(3名の内の誰か)が歩いている、私が団地を出入りするタイミングで、特定の住民グループの中の2~3人が出入りするという、どう考えても意図的にやっているとしか思えない現象の連続。


こうして2011年から始まり現在に至るまで、このような悪意を持つ住民や企業、公務員、反社会的勢力との戦いは続いています。もういい加減にうんざりしているのですが、果たしてこのような被害から解放される日は来るのでしょうか?
今の状況から見たら非常に厳しいことは確かですが、だからと言ってこのまま黙って野垂れ死にするわけにはいきません。納得なんてできません。できるわけないじゃないですか。
納得できない以上、戦うしかないのですが、この隠された犯罪がどのようにして行われているのかを白日の下に晒し、世間に知らしめることでしか解決はしないと(ここで心臓に針を刺すような痛みあり)改めて思うのでした。
この日本を守る為に、日本人は戦って欲しいと思います。日本人に成りすまし日本を宿主にしている者達、日本国内にいる「内なる敵」、そして日本国外から日本を操り支配する「外なる敵」と戦って欲しいと思います。
私の被害のことばかりになってしまいましたが、311で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
