集団ストーキングは「人間闘牛」 死を究極のエンターテイメントにする残酷な者達

被害者の方で人間競馬という造語を聞いた事のある被害者の方は多いと思います。

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競馬の馬の代わりに生身の人間を見せ物にして賭ける残酷な娯楽があるという話があります。ターゲットをリアルタイムに観察(盗撮)して、その行動を賭けるのだとか。

加害者が仕掛けたコリジョンやアンカリングに対して、ターゲットがどの様な反応をするのかを賭けるのでしょう。

例えば、ターゲットに気付かせる事ができるかどうかに賭ける場合。

・「気付く」に賭ける

・「気付かない」に賭ける

参加している人物は「気付く」または「気付かない」のいずれかに賭ける。ターゲットが加害者の存在に気付いたら「気付かない」に賭けた人物の掛け金は「気付く」に賭けた人間で山分けする。そして仕掛け人である加害者も、ターゲットに気付かせる事ができた時のみ報酬が得られる、あるいは加算されるシステムになっているのかも知れません。

また、どれだけターゲットを不快にさせたかによって金額が増減する様な支払いシステム?になっていたり、さらにその人間賭博を見物している観衆もいて、それらの観衆からも入場料の様なものを得ているのかも知れません。会員限定の特別なネット配信網があり、会員から月5万円とか会費を得ていれば、かなりの裏ビジネス(やっている事は犯罪そのもの)になるでしょうね。

その場合、映像提供には近隣住民が関わっているはずです。だからしつこく付きまとう住民がいるのです。仕掛け人兼情(映像)供者として、仕事にも出ずにずっと私に貼り付いているのです。というかこれが“お仕事”なんでしょうけれど・・。それで生活保護だったりしたら、私だけでなく納税者からも相当恨まれますよ。冗談じゃないと。

あくまでもこれは私の推測に過ぎませんが、おそらくこういうことが行われているのではないかと思います。

そんな事を考えていたら、ふとこれは、競馬というよりは闘牛に近いのではないかという思いが脳裏を過ぎりました。

私の様な被害者というのは、まるで闘牛場に引きずり出され、公開の場での死が約束された哀れな闘牛のようだとつくづく思うのです。

牛を挑発する闘牛士は、ターゲットを挑発する加害者そのもの。まさしく人間闘牛ではないかと、この闘牛と自分の姿が重なり、胸が押しつぶされそうになりました。

観客が歓喜の声を上げる中、何本もの刃を背中に受けて絶命する。

どんなにか辛く、苦しく、無念だったかと牛の最後を思わずにはいられません。

先の記事によれば、闘牛としてデビューするまでは何も知らされず、いい環境下で育てられるのだそうですが、私達被害者もそれに近いものがあると思います。

決していい環境下とは言えないものの、その先に待ち受けている残酷な“デビュー”などつゆ知らず、普通に生きているつもりになっていたのです。

でも違っていた、そうではなかったのです。全ては彼らの敷いたレールに沿って走らされていただけ。あるいは、密かに闘牛場に向かうエスカレーターの上にいるのに、自分の意志でそこにいると錯覚していただけ。

ある日気付いたら目の前にゲートがあって、その扉の向こうに強引に押し出されると、そこは自分の死というエンターテイメントを見て興奮し楽しむ観客で溢れかえった闘牛場。

その時になって初めて、自分の運命そのものが最初から決まっていたことに気付く哀れな牛(被害者)達。

それまでの自由に生きていると思っていた期間なんてまやかしで、デビューするまでの飼育期間にすぎなかったのだと漸く気付いた時にはもう手遅れ。闘牛場に押し出された牛にはどうする事もできないのです。

こういう画像を見るだけで辛い

飼育と言っても自分で働いて自分を飼育していただけの事。普通に働いていたターゲットにも、ある程度の余裕ができると、あるいは退職金などが入ったり保険が満期を迎えたり、年金生活に入る手前辺りを見計らって、“主催者”の意向でデビューさせる時期が決定されるのでしょう。

作物で言えば収穫祭の様なもの。一粒の種さえ残さずに根こそぎ収穫する地主達。全ては最初から決まっていた事。

ただ、苦しんで死んでいく瞬間さえも娯楽としてしまうのは、やはり人間闘牛の要素が強いと思います。この残酷なシステムを闘牛に見立てて考えるときれいに説明が付くと思いませんか?

被害者は惨めに殺されていく闘牛。被害者を挑発し付きまとうストーカー達は闘牛士。そしてそれを嬉しそうに見ている観客は、集スト劇場を見て楽しんでいる傍観者達。あるいはVIP対応の有料配信の会員達。

観衆から見て牛の死闘は最高のエンターテイメントでありスポーツであり、尊厳ある死なのだとか。

でもそんなのは観衆(人間)の勝手な理屈。牛に取っては、単なる残酷なゲームでしかないのに。

ましてや、TIに尊厳死などあるはずもなく、徹底的に貶められ辱められ、屈辱の限りを味わい、スローキルという手法でじわじわと嬲り殺しの責め苦を味わい、死の瞬間さえも見せ物にされ、どこにもぶつけようのない怒りに悶え苦しむ日々。

なぜそんな残酷な事をするのだろうか?

その苦しみこそが彼らにとっては一番の好物だから。人間や動物の苦しみ、悲しみ、そして血こそが悪魔どものパワーの源。

やっぱり生贄なんだ。私達ターゲットはみな生贄。人と動物の流す血や苦しみから邪悪なパワーを得ている悪魔に捧げられ、やがて屠られる子羊。

競馬にしても闘牛にしても、そのような場を設定して、馬や騎士、牛や闘牛士を配置して、チケットを売り観衆から金を取って大儲けをしている者達がいる。他方、闘牛場を建設して大儲けをしている者達もいる。命と苦痛を金に換えるおぞましい者達がいて、それこそが集団ストーキングの黒幕なのだと思います。

けれどその上にはもっと邪悪な者がいて、お金を餌に邪悪な人間達を動かしているのでしょう。それこそが所謂悪魔と呼ばれる存在で、その悪魔は決して姿を現さないで人を惑わしているのです。あるいは正体を隠し、何かに偽装しているのですが、多くの場合、人間そっくりだったりするので、普通は見分けが付かないと思います。と言っても偽装してその変を歩いているのは多分下っ端の悪霊レベルかも知れませんが・・。

こういう話をすると、気が触れたと思われるかも知れませんが、悪魔崇拝者達があんなに夢中になって儀式をするのは何故かを考えたらわかると思います。何の効果もメリットもないのなら、そんな事を続けるはずがないと思いませんか?何らかの見返りがあるからに決まっています。特別な力、つまり超能力を授かったりしていると思います。透視だったり、テレパシーだったり。だからターゲットの行動なんて全て筒抜けなんです。そういう力を授かっていない人間はハイテクを使っているでしょうけれど。

でも所詮は下っ端なので、いざとなれば見捨てられる運命です。PERPなど、下手をすれば闘牛の角に突き刺されて命を落とすかも知れない闘牛士にすぎないのに、何か思い違いして偉くなった様な気になっている者もいる様ですね。

闘牛の牛だって命がけ。捨て身で反撃したらそういうこと態にもなるでしょうに。自分が牛の立場だったらと考えた事はないのでしょうか。

平野氏の公判が開かれていますが、平野氏が本当の被害者であるなら、おそらく平野氏もこうして追い詰められた結果、あのようなこと件を起こしてしまったのではないのかと思います。ただ、私はそのような事は絶対にしません。私が反撃するのはネットの中だけ。あとは心の中で、一日も早くストーカーどもがいなくなればいいのに、なんて思ってしまうのですが、そういうことを考えない様にと思っても考えてしまうのです。無意識に。

いずれにしても、命を粗末にしたら、他者を不幸にして弄んだら、それは必ず自分に返ってくると思います。個人的にだけでなく、もしかしたら人間全体に、なのかも知れません。救う価値のある人間がどれだけいるのか、その時にジャッジされるのでしょう。

声なきもの達の声が聞こえない者達は、いつか同じ苦しみを自分が味わえばいいと思う。

そんな自分も動物の命を奪いながら生きている。人間も動物も、命を奪い合うことなく、誰も何も傷つけない生き方ができたらどんなにいいだろうと思う。この世界は神が創造したとキリスト教は教える。ならばなぜ、最初からそういう世界を神様は作らなかったのだろう。

この世界はあまりに残酷すぎる。



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